林城は平安時代末期、常陸大掾氏の一族鹿島三郎成幹の六男頼幹が林六郎左衛門と称しこの地に住し、その子孫の居城であった。
 林氏の菩提寺である瑞雲時の記録によれば、室町時代には現在の位置に城が築かれていたのは判っており、応永年間(1394-1428)には林時則によって近くに瑞雲寺が建立されるなど、林氏の活動が活発になってくる。
 当時、現鹿嶋市の林・青塚・奈良毛・角折・志崎などの地を領有して勢力を伸ばし、「桂山林公」と呼ばれた。しかし天正17年(1589)、城主林時国が佐竹氏の招きに応じて太田に向う途中、札(鉾田市)の渡し場で家臣に殺害され、その後の天正19年(1591)鹿行の三十三館と共に城は廃された。
 林城は、城主の居住域である中城と城山と呼ばれる外城からなっている。外城は、三方を谷に囲まれ、天然の地形を巧みにに利用した堅固な城構えである。堀は深く土塁は高く、今なお当時の城の様相をそのまま残している。(林城の構造を参考)
 
 
 外城と中城は湿地帯で区切られここから兵馬での侵行は難しかったと思われる
 
 林城の外城と中城の位置図
   
 鹿嶋市「林城跡」指定文化財の看坂(山道の入口) 林外城に至る山道の入口 
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